平成25年度の『テーマ』
食前の言葉
『多くのいのちと、
みなさまのおかげにより、
このごちそうをめぐまれました。
深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。』 によせて。 |
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今年一年は、この『食前の言葉』をテーマとしてお話をしてきました。そこには、もちろん食べること自体“大切ないのちをいただいている“ということもありますが、同時に“多くのいろんないのちがある”という事にも気づいてほしいという思いがありました。 |
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― 自分以外の命 ―
参観日では、どうしても自分の子どもを中心に見てしまう自分がいます。いえ、自分の子どもの友達も見ていますけれど、そうでない友だちはどうでしょう。あまり見ていないかもしれません。そこには、自分以外のいのちでも、自分の知り合いのいのちはいのちと見えるけれども、そうでないものは、いのちとみえない世界があります。
震災の地もそうでしょう。外国もそうでしょう。いろんな所でいろんな子ども達が、生きています。でも、あれは遠いいのち、自分のいのちではない、と思う気持ちはありませんか。けれども私は、そこにも“いのち”を見つけてほしいと思って、今年はこのテーマを選びました。 |
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「人が亡くなった時、私たちはみんな“悲しい”という言葉で、ひとまとめにしてとらえてしまいます。けれども、実は、そうではないのです。親や子どもが、夫や妻が、祖父母や孫が・・・
亡くなった人に対する悲しみの気持ちは、みんな違います。亡くなられた人に対する悲しみの気持ち、大切な人を失った人の悲しみの気持ちは、みんな同じように“悲しい”と、ひとくくりに出来るほど、そんな簡単なものではないのです。
それと同じで、私たちは、さもその人の気持ちがわかったかのように、わが子の気もちがわかったかのように、そしてその周囲の人の気持ちがわかったかのような顔をして過ごしています。
そこには必ず軋轢(あつれき)が生じます。その通りだと思っていればいいけれど、これはちょっと違っていたといって、少しずつ気持ちがずれていくと、そこに軋轢が生まれてくる。そして、そこから摩擦が起きてくることになります。しかし、それは仕方のないことなのです。私たちは、『相手の気持ちがわからない』ということをわかっていません。子どもの気持ちがわかるはずがない。親の気持ちがわかるはずがない。主人の気持ちがわかるはずがない。とわかっていれば、すこしは物が見えるし、その人の命、一人一人の命をいのちとみていくことのできる世界が、そこにできてくると思います。今年度は、そんなことを皆さんと一緒に考えていきたいと思っていました。 |
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― よい教育って? ―
以前読んだ話の中に、“昔は、いろんな子どもがいた”という記事がありました。駆けっこが得意な子、頭の切れる子、料理の上手な子、みんなをまとめることが得意な子。でも今は、そうやって一つのことだけできるのではなくて、みんな同じようにできる子に、育てているのではないかという内容です。
“教育”というのは、みんな同じような人間に育てていく、という面があります。集団で教育していく場合、しかたのないことでもあります。けれども、幼稚園では一人一人を、見ていきたいなと思っています。幼稚園には“数値目標”というのがありませんので、比較的やりやすいと思います。小学校・中学校と進むとだんだんと数値目標がでてきます。そうすると「それに向かってがんばろう」と、みんな同じようにできないといけなくなるのです。それは、辛いことだと思います。皆さんも辛かったのではないでしょうか。「ここだけ良ければそれでいいよ」と言われていれば、もっと楽だったのではないでしょうか。逆に「これだけやっていればいい」と言われていた人は、そこから伸びていって、その中には作家になったり、画家になったりして自分の才能を、自由に広げられるようになっていけるように思います。しかし、そういう風な教育環境に、全てがあるわけではありません。ごく一部の学校であったり、一部の先生がそうやって下さっているだけで、ほとんどが、そういうことができていないという現状です。
また、二、三日前にラジオを聞いておりましたら、幼稚園や保育園の頃に自由に遊ばせていた子どもの方が、いろいろといって育てた子ども達より、よい大学に入れるという統計が出た、ということを言っておりました。それを聞きながら、「なぜニュースにするのかな。いい大学やいい研究者、いい文学者になることが、人間の全てではないと思うのに、なぜ世の中はそうやっていい大学に行ったり、世間一般でいうよい地位に着くということがすばらしいといって、それに対してどうしたらいいという事を、声高らかに言っている。」それを聞きながら、おかしいなと思いました。 |
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― 育てるということは、待つこと ―
人は考え迷った時に、立ち止まります。「どうしようか」と思い悩み、前にも出られない、後ろにも戻れない、横にも斜めにも動けない―そんな時、私たちはどうやって進むのかというと、誰か自分の親しい人、尊敬する人を道しるべに前に進もうとする。それと同時に背後から「大丈夫だよ。行っておいで。」と背中を押してくれる人、その二つがそろった時に、私たちは勇気をもって、一歩踏み出すことができるのだと思います。
人は一人一人、みんな違います。兄弟でもみんな違うではありませんか。違う夢を持ち違う道を歩んでいく、それをどうぞ認めてあげてほしいのです。その子のありのままの姿を、見てあげてほしいのです。そして、その子たちが、壁にぶつかった時、曲がり角で立ち止まってしまった時、その時は、どうぞ待ってあげてほしいのです。大人からみたら小さな段差や曲がり角でも、子供たちからみたら、大きな段差や曲がり角であるかもしれない。そんな時は、背中を押すことも大切ではありますが、待ってあげることもとても大切なことなのです。子ども達自身の力でその段差や曲がり角を越えることができた時、初めて前へ進んでいくことができるのです。だから、どうぞ待ってあげて下さい。 |
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― 他の命に寄りそう ―
お寺の婦人会で、70〜80代前半ぐらいの方といろいろお話していましたら、60人の内
40人ぐらいが、一人で住んでいらっしゃいました。残りの方は、ご主人と住んでいらっしゃったりで、子どもと一緒に住んでいらっしゃる方は、おられませんでした。「どうですか、みんな幸せですか」と聞いてみました。「幸せでも幸せじゃなくてもしょうがない。」と言われました。「たまに孫が帰ってくるのが嬉しい。」とも言っておられました。そして「みんな遠くに住んでいてなかなか帰ってくることができない。」とも―。
昔は、みんな同じように勉強して、勉強せぇ勉強せぇと言われて、働け、働けといわれて、
みんな遠くに行ってしまった。残っているのは、おばあちゃん一人だけ、それはおばあちゃんにとっては寂しいのだけれど、子どもが幸せならそれでいいと思っている。問題は、子どもや孫がどう思っているかということです。おばあちゃんが何もいわないから知らない、たまにおばあちゃんに電話をしているからいいや、という子どもになっていないかが心配なのです。親元を離れ家を建て、子どもを産み育ててきた、故郷を捨て、親も何もかも切り捨てていく中で、ひいては自分をも切り捨てていってはいないでしょうか。そうした子どもたちに、“親を捨てた”という負い目があってほしいなと思います。負い目があるということは、一番初めにも申したとおり、親の命を自分以外のいのちとして、とらえられているという事なのです。
いい大学に行こうが、いい職業に就こうが、人の心の中はわからないが、どうにかして人の気もちに寄添ってあげたいなと、思う子どもに育ってほしいと思っています。
それが一番大切なことではないかと思います。 |
長府幼稚園 (2014.2.13 参観日にて)
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